心の話 (清水先生の日記)

  心の話 【清水先生の日記】

Ssen
  清水先生筆

人間は現在のありのままの自分の姿が、人間の本性と思っておりますが実は大きな錯覚なのです。

人間の本性とは素直で正直そして、人に対する優しさや思いやり、労わりや慈しみその人の為には、自分の生命にかえても守ってあげようと言う愛の姿が人間の本当の姿なのです。

人間はその錯覚に気づいた時、時間を超越した永遠の真理を悟ることができるのです。
 

S先生の日記Ⅰ 目次

下の目次からお読みになりたい項目をクリックしてください

1、言葉 2、日の寄進 3、心について 4、悟りについて
5 信仰とは 6、悪因縁を切る方法 7、 8、努力と因縁
9、心の高さについて 10、えー、しかし、そうですか?でもねの言葉
11、信仰を持つとなぜ救われるのか 12、憎いこころについて
13 理と現場 14、朝の挨拶 15、高い心からの言葉
16、合わせる心は水心 17、不足心 19、素直は水心
20、本音とたてまえ 21、いただきます 22、させて頂きますは奉仕の心
23、商い 24、立つより返事 25、すみませんは反省の言葉
26、言うは易し行なうは難し 27、男は月様の思い女は日様の思い
28、子供が親の言うことを聴かないのは 29、当り前が信仰です 

S先生の日記は、まだまだ続きます、随時更新させていただきます

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2009年1月19日 (月)

29、当り前が信仰です

人が信仰をすると言う事は、神の思いである本当の元の理を知るためであります。その為には当り前と思うことに感謝が出来なければ、信仰はできません。

例えば、妻が料理を作る、掃除をする、洗濯をする等、主人の方から見れば当り前のことをしている、自分は外で働いて家族を養っているのだから、家のことは妻と子がやるのは当り前と思う。しかしこれは、一面思考であり自分から見て相手のすることが当り前、

二面思考、その裏を考えてみると、もし妻や子がいなかったらどうなるか?それは自分が全部やらなければ埃やチリの山となってしまいます。

ですから当り前と思う事に感謝が出来なければ、信仰できないのであります。自分自身にとっても当たり前のことが出来ているか、分かっているのかというと、出来ているようで出来ていないし、分かっているようで、分かっていないのではないでしょうか、

自分は分かっているつもりでも、相手の方が同じに思っているかと言うと違うのです。その違うところに問題があるのです。

ですから、神は人間に言葉を許し、心と心とをつなぐ道具として認めておられるのであります。

一家の家庭に於いても良く話し合い、互いに本音で納得できたなら、二人の心がひとつになり、その事が一つ一つ出来上がっていくのであります。

夫婦の絆も、親子の絆も、真心と真心の通じ合いの回数が多いほど、夫婦、親子の信頼関係が太くなるのであり、これが絆なのであります。

信仰の始まりは、神の思いに依って人間が生きているのではなく、生かされているのであり、総じて神の思いに依って運営されているのであります。

ですから人間は、神に対し感謝と懺悔以外に無いのであります。当り前と思う事はすべて自己中心的な考えであり、二つ一つが天の理の諭しの通り、その裏の現象を思いやる心を養うことが大切なのであります。

当り前と思うが、当り前でなかったら、自分自身で全部やらなければなりません、ですから当り前に対する感謝の心がなければなりません。

信仰は感謝の心から始まるのです。

ありがとうございます。

昭和60年12月26日

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2008年10月 3日 (金)

28 子供が親の言うことを聞かないのは

おさしずの中に、「親がことなり、子が親となり、生まれ順序は元の通りや」とのお言葉があります。

これは、親神が人間子供達にたいしてお諭し下されたのであって、人間の親子関係は今生は血を分けた親子であっても前世に於いて、来世に於いての親子関係は神のみが知る処であります。

親神は人間の生まれや出直りのつまり、前世と今世、今世と来世に対して黒いベールをちょいと降ろしたのやで、お知らせ頂いてあります様に、人間には前世も来世も分からないのであります。

そこで今世の肉親の親子関係に於いて、子供が親の言うことをちっとも聞かないということを、良く耳にいたします。これは親の方にしてみれば、苦労して育てたんだから子供は親の言うことを聞いてくれるのは当たり前、という思いを潜在的に持っている。一方子供の方にすると、産んでくれと頼んだ覚えがない、となってしまう。この心の喰い違いが争点となってしまうのであります。

親神は子育ての最中は、無理せんで良いでと仰せられている、肉親の親子であっても、神の目から見たら皆可愛い神の子なのであります。

ですから子育てとは、神の子供を育てるのであるから、無理に神慾はかかんでもよいと、仰せられていると思います。

この様に肉親の子供であっても神の子供なのですから、子供に対しても感謝の気持ちをあらわさなくてはなりません。

子供が親の言うことを聞かんのは、この道理が分からず、親の心の貧しさが子供に伝わってしまうからであります。

子供が親に言いつけられた用事が終わったとき、親は当たり前と思わずに感謝の心、「ありがとう○○ちゃん」と伝えることを忘れているからであります。

感謝の心、ありがとうの言葉は自分自身も又、相手の子供の心を、やわらかくして豊かにすることが出来るのです。

何でも当たり前と思ったら信仰はできません。

子供に対しても、ちり紙一枚、新聞一枚、電気をつけてもらっても、○○ちゃんありがとうと、感謝の心を伝えるべきなのです。

大人の方にこの心使いが出来ない、心が貧しいから子供が言うことを聞いてくれないのでありますから自分以外の人から、労力で奉仕していただいたときは、必ずありがとうの感謝の心を伝え合いましょう。

これが信仰をもったら救われる、その元の理のことでありますから、今日、只今から感謝の心を忘れずに伝え合いましょう。

ありがとうございました。

昭和60年12月24日

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27 男は月様の思い、女は日様の思い

男は月様の理ですから水の理であり、女は日様の理ですから火の理であります。

人間の男女はこの月日様の思いによって作られてありますから、男女の思いも別々なのであります。

一家の家族の中でも主人より奥さんの方が強く心でいつも主人を尻の下に敷いておきますと、その奥さんは冷え性となってしまうのであります。

なぜなら、男は水の理でありますから、奥さんは例えばたらいの中に水を組んで四六時中入っているのと同じことになります。ですから女の冷え性はあっても男の冷え性は少ないのであります。

男の冷え性は心が氷のように冷たすぎるからであり、奥さんに劣るからであります。

日様の思いは女の人の温かみと日々の働きの思いによるものです。

ですから女の人は日々、掃除、洗濯、お掃除、お料理等、毎日毎日の働きが大切なのであり、理にかなっているのであります。

その反対に男は月々の働きをする、つまり男は月に一度月給をとる、また月に一度奥さんに月給を渡す役割があるのであります。

ですから家族は、男女夫婦の調和さえ良ければ、旨くいくのであります。

夫婦は端々の人が認めたら、それは天の許した夫婦なのであります。ですから神の因縁(白因縁)に依ってなされる相でありますから、男の月々の給料を見て、その分相応の
生活が出来るはずであります。

しかし、その理がほんとうに治まっていないで人は上ばかり見て暮らすものですから、つい背伸びをする、その背伸びが女の人が外に出て働き、夫の不足を自分が働く事に依って補おうとする、大切な事は、心の貧しさに気が付かないことであります。

神は、「上見れば星、星、星の星だらけ、下見て暮らせ星の気もなし」と諭されております。

夜空は星ばかりですが、その星一つ取ろうとしても取れるものではありません。それより大地にしっかり足をつけて見て御覧なさい、この地球からは人間に必要な食べ物やすべての物があるのです。

ですから高望みをする前に、まず家族の中を良く見つめて、ご主人に不足を与えないように、気働きして一生懸命奉仕することが、大切であります。

道理い適わぬ奥さんが外から働いて来るお金は、身につくものではありません。男の給料も皆神の思いと、その夫婦の因縁によってその得分が定まっているのでありますから夫に感謝して、死んだお金を使わぬよう、生きたお金を使うよう心がけて、夫に感謝し、夫は妻に感謝して通る心が出来たなら、これは理に適うのであります。

もうこれで良いと思ったら、その時から進歩は止まってしまいます。男女共、親神様のそれぞれの思いを自覚して、共に助け合って生き、足りないところを補い合っていく処に陽気暮らしの道があるのです。

ありがとうございます

昭和60年12月23日

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2008年4月11日 (金)

26、言うは易し行うは難し

諺に「言うは易し、行うは難し」というのがあます。昔の人は偉いものだとつくづく思います。

言う事は簡単ですが、一つ身を持って実行しようとすると、なかなか難しいことが出てまいります。責任をもって言うという事は、裏側に実行がなければなりません。言うだけ言うのは無責任です。ですから同じ諺の中に不言実行という諺もあるとおり、実行はなかなか難しいのであります。

言うだけならば、誰でも口を持っているのですから、いえるのです。しかし実行は難しい物なのです。

人間は口八丁手八丁などと言うようになかなかいきません。口八丁手八丁の人も少ないのです。人間は自分を中心に考えるから口八丁手八丁の人をあの人はうるさい、口が達者とすぐに批判めいたことを言います。

しかし、手八丁のほうも見ているから強い批判が出ないです。実行はできなくても、言うことは言う、これが人間の心であり、神の心とは反対なのであります。

神の心とは思いですから、実行の心を受け取るのであります。

素直が神の望み素直に受けて素直に実行することで、神の心に近づけるのであります。ですから不言実行という諺があるのです。

神の世界は思いだけであります。人間の世界も思いなので、通じる筈なのですが、心がよごれているから、相手の心が映らないのであります。そこで言葉を心と心をつなぐ道具としてお許しなされたのであります。

しかし人間は本当の親の思いが分からず五感を通して判断してしまう習慣がみについてしまっているのです。そのため道理を踏み外して悩み苦しみ身上事情で本当の元が分かってくるのです。

しかし五感も神が人間に許したのであります。その思いは五感を通して陽気暮らしをさせたいとの思いです。

言うは易し行うは難し、行いに依って身を通し心が本当の元を理解していくのであり、ですから苦労は我が身のためなのであります。

言うは易し行うは難しより、不言実行で行きたいと思います。                                              ありがとうございます。                                        昭和60年12月23日

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25.すみませんは反省の言葉

親神が人間に言葉を許されたのは、「人間の心と心をつなぐ道具」としてお許しになられたのであります。

その言葉の中に、「すみません」という反省の心を表す言葉があります。ではこの反省の言葉が日常正しく使われているでしょうか?言葉そのものの正しい認識が少ないようであります。従って反省の心を表す「すみません」の言葉も同じであります。

例えば、おみちの中でも 「お茶いかがですか、」という思いやりの言葉に対し「どうもすみません。」と反省の言葉を使ってします。もしこの場合は「ありがとうございます」又「ありがとうございます、もう十分頂ましたので、」とお答えするのが正しいと思います。

相手の思いやりの言葉に対し、反省の言葉でなく、やはり思いやりの言葉「御手数をおかけしてすみません」又は「雑作をかけます」のほうが正しい使い方であります。

親神は言葉一つが用木の力、とお諭しくださいますが、確かに言葉一つによって、相手の方の心が替わり助けさせて頂くことが沢山あります。

しかし、言葉のなかに心が籠っていなければ相手の心にしみこむ説得力がありません。
文字を覚えるのは頭です、でもその文字の本当の意味を悟るのは、身体を通じて心が悟るのであります。

用木である私たちは、正しい言葉使い、つまり理に適った言葉使いを、身につけなければ
なりません。すみませんは反省の言葉です。その言葉に心が籠っていたら、二度と同じ反省の言葉が出ないよう気をつけたいものです。

ありがとうございます。                                            昭和60年12月23日

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